蔵王町に根付いた真田一族!

其の6 蔵王町に根付いた真田一族!
1644年、守信に領地が与えられました。
守信の領地は、今の蔵王町の矢附(やづき)地区と曲竹(まがたけ)地区を中心に合計360石与えられました。
矢附村にはお屋敷を立てたため、蔵王町は守信の領地の中心になりました。
日本一の兵(つわもの)・真田幸村公の家柄と蔵王町とのゆかりは、ここから始まったのです。
しかし、守信は再び「真田」と名乗ることができないまま、1670年、60歳で亡くなりました。




山水苑日記 | 2010.11.29 11:21 | コメント(0)

真田から片倉に・・・

其の五 真田から片倉に・・・
1640年、真田守信はめでたく蔵米300石取りの家臣として伊達家に召し抱えられました。
長い間途絶えていた、真田幸村公の血筋と家柄が復活することになったのです!
ところが、守信が召し抱えられてすぐ、徳川家から、守信の家系を調べるようにと命令がありました。
どうやら『真田守信は、本当は幸村の息子、真田大八なんじゃないか?徳川家の目を盗んで、大罪人の真田幸村の家柄を復活させようとしているんじゃないか?』と徳川家から疑われてしまったようです。
徳川家の疑いを晴らすため、守信は、せっつかく名乗った『真田』の名字を、子どもの時代の『片倉』に戻すことになったのです。
山水苑日記 | 2010.11.28 11:39 | コメント(0)

戦国の秘(まるひ)大作戦

其の4 戦国の秘(まるひ)大作戦
大八は、「片倉久米介」と名前を変えて育てられました。
このころ、京都で「真田大八7歳の時に京都で亡くなったのだ」というフシギなうわさが流れました。
このうわさは、片倉重綱や伊達正宗がながしたものだと思われています。
大八が亡くなったことにすれば、片倉久米介(本当は真田大八)を育てやすくなるからです。
その後、大人になった片倉久米介(本当は真田大八)は「真田守信」と名乗りました。
このころ、片倉重綱や伊達正宗は、にせの家系図を作り上げます。
その家系図には、「真田守信は、幸村公のおじさんの孫」と書かれました。これで、守信が真田大八じゃないかと疑われても大丈夫!!

今も蔵王町には仙台真田氏にまつわる史跡が残っていて、歴史とかは何かと苦手な私でしたが、この物語を読んでいるうちにだんだんと歴史は奥深くおもしろいなぁと思いました。このあと3話続きますので、みなさんよんでくださいね<m(__)m>
山水苑日記 | 2010.11.27 17:09 | コメント(0)

隠された大八!

其の三 隠された大八!
大八たち5人の姉弟は白石城主をつとめていた片倉重綱に育てられました。
4人の姉たちは『片倉重綱が幸村公の姫を育てている』と天下に知らせて、白石城で堂々と育てられました。
やがて、三女阿梅は重綱の妻になりました。
六女おかねと七女阿菖蒲も結婚して、幸せに暮らしました。
でも、お姉さんたちとは反対に、大八が育てられていることは秘密でした。
幸村公の血をひく男子の大八は、徳川家に見つかれば殺されてしまうに違いありません。
それに、大八をかくまった片倉重綱や伊達政宗も、徳川家に滅ぼされてしまうでしょう。
だからこそ、大八を育てていることは、絶対に秘密にしなければならなかったのです!
山水苑日記 | 2010.11.26 10:20 | コメント(0)

幸村の息子、大八!

昨日に続き仙台真田物語を紹介します。
其の二 幸村の息子、大八!
幸村公が亡くなった時、幸村公には2人の男の子がいました。
長男の大助は幸村公とともに合戦で亡くったため、残ったのはわずか4歳の次男大八ただ1人。
家康の命をおびやかした幸村公は、徳川家から見れば大罪人!その血を受けつぐ大八を、生かしておくわけにはいきません。
しかし徳川家は、どうやっても大八のゆくえをつかむことはできませんでした。
それもそのはず。
大八は4人の姉たちとともに、合戦の騒ぎにまぎれて伊達正宗の重臣、片倉重綱のもとに送り届けられていたのです!
山水苑日記 | 2010.11.25 09:15 | コメント(0)
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