仙台真田氏

郷土に伝えられた真田幸村の血脈

皆様こんにちは!
豊臣の血筋を守ろうと徳川家康に立ち向かい大阪の陣に散った天才武将の真田幸村、この時に絶えたはずの真田の血脈がこの蔵王町に伝えられていたのを皆様ご存知ですか?今日は仙台真田氏についてご紹介します。
時は大阪の陣の大阪城、徳川家康の圧倒的な兵力についに討ち死にした真田幸村・・同時に長男の大助幸昌も自害して果てます。そこで、最後に残った幸村の血筋を受け継ぐものは次男である大八だけになってしまいました。
幕府は大八の行方を追及しましたが、探り当てることが出来ませんでした。驚くべきことに、大阪城落城の混乱の中、真田大八は4人の姉とともに外様大名筆頭格の・伊達政宗の治める仙台藩へと逃れ、政宗の重臣・白石城主片倉重綱の下で密かに養育されたというのです。

幕府にとっては、家康を窮地に追い込んだ大罪人・真田幸村の男子である大八の存在は見過ごすことが出来ないものでした。大八が匿われているのが知れれば、最悪の場合片倉氏のみならず、仙台藩六十二万石が取りつぶされる危険すらありました。にもかかわらず、幸村は政宗・重綱に男子の命運を託し、両氏は幸村の遺志を汲み取って大八を匿いました。
その理由は、「大阪の陣での重綱の戦いぶりに感銘を受けた」「徳川氏も一目置く伊達政宗の力をあてにした」「片倉氏と真田氏は同郷の出身で古くから交流があった」など諸説ありますが、真相は歴史の彼方です。

重綱の保護の下、大八は名を片倉久米介と改名し、成人後は守信と名乗りました。その間政宗・重綱は「真田大八は幼くして京都で死亡」という偽情報の流布や、「守信は幸村と別系の真田氏」という系図偽造などを行なっていた模様です。
寛永17年(1640)、守信は真田姓名乗って伊達家の家臣になります。しかし出生について幕府から疑いを掛けられた事から片倉姓に戻し、以後生涯真田を名乗ることはありませんでした。伊達家家臣として、守信には刈田郡・栗原郡に三百国の領地が与えられました。刈田郡の領地は現在の蔵王町矢附・曲竹だそうです。こうして徳川幕府を相手取った壮大な歴史秘話の果てに、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)・真田幸村」の血脈がわが郷土に根ざし育まれることになったのです。\(◎o◎)/!この真田幸村の末裔は私の良く知る人物です。
どうですか?蔵王に息づく壮大な歴史ロマンを楽しんでいただけましたか?さらに詳しく知りたい方はこちら
http://www1.odn.ne.jp/cah49810/papa/index.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%AE%B6
または蔵王町教育委員会にお問合せ下さい。
きっと詳しく教えてくれますよ!
蔵王町教育委員会 文化財保護係
0224−33−3008
山水苑日記 | 2010.08.27 11:11 | コメント(0)
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